伊達政宗とは?

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

生涯

1567年 奥州伊達氏の伊達輝宗と最上氏の義姫との間に生まれる。幼名は梵天丸。
1571年 天然痘にかかり右目を失明。このころから母は弟の小次郎だけを可愛いがるようになった。
失明した右目のため、周囲への劣等感から少年時代は非常に暗く、無口な性格だったらしい。
しかし側近の片倉小十郎に医者のもとへ連れて行かれ、右目を抉り出されたという。
その後は明るく快活な性格となって文武両道にはげみ、武士として成長していった。
小十郎とは、剣術を習ったり作戦参謀をしてもらうなど、政宗の人生においてこの後も重要な人物となる。
1584年 家督を継ぐ。政宗自身は、「若すぎる」と相続を断ったが、輝宗は政宗の武士としての本質を見抜いており、家を継がせた。
1585年 父の輝宗が畠山氏に拉致されて殺害される。
1589 摺上原にて蘆名氏・佐竹氏の連合軍と戦い、勝利する。これを機に、政宗は全国に知られることとなる。
1590年 豊臣秀吉に命じられて仕方なく小田原へ出撃。
1592年 豊臣秀吉から朝鮮出兵を命じられる。このころはすでに豊臣の天下であったため、またも逆らえず出撃。
1598年 豊臣秀吉死去。遺品として『鎬藤四郎の脇差』を受け取る。
1600年 上杉氏との戦い。上杉景勝の部下、登坂式部勝乃の居城、白石城を陥落させる。
この年に天下分け目の関が原の戦いがあり、政宗は徳川家康の軍に参入していた。
いろいろと功績を立てたため、家康から百万石の領土をもらっている。
1601年 仙台城(現在の青葉城)に本拠地を移す。
1613年 支倉常長をヨーロッパに派遣。外国の文化を学ばせた。
1614年 大阪での戦。部下の片倉重長が後藤基次を討ち取ったり、政宗自身も真田幸村と互角の激闘を繰り広げるなど、大きな功績をたてた。
世間が落ち着いてからは自分の領土の整備にかかりっきりとなった。その甲斐あって、仙台周辺は大きな穀倉地帯となった。
1636年 死去。享年70歳。ちなみに、死後の政宗の絵や像にはちゃんと両目がある。これは本人の希望。